毘沙門堂とお大師さま
途絶えた行事・お接待
前回のこのブログ「大分『志手』散歩」では毘沙門堂に賽銭泥棒が出たことをお知らせしました。
「毘沙門堂今昔」」と題して7回書いています。左の写真はその1回目の「毘沙門堂今昔 予告編」(2024年2月13日公開)です。
話がもう一度毘沙門堂に戻ってきたところで、昨年の毘沙門堂今昔シリーズでは取り上げなかったことを一つ書いてみたいと思います。
それが毘沙門堂で行われていた「お接待」。弘法大師(お大師さま)の命日に合わせて志手でも「お接待」が行われていたのだそうです。
大分県内で見られる「お接待」は、いまや消えゆく伝統行事だそうです。
その原点は四国で行われている「接待」にあるようです。
接待とは、弘法大師(空海)ゆかりの四国88カ所の霊場を巡る「遍路」を助ける行為です。
霊場を巡る遍路に食べ物などを提供し、ねぎらう風習だそうです。遍路を積極的に助けること、遍路への施しは弘法大師への供養・報謝でもあるとの考え方があって、四国で接待が定着していったとのことです。
四国での接待の風習が大分に伝わって、大分でも「お接待」が行われるようになったということでしょうか。
大分では弘法大師を信仰する人たちが、旧暦の3月21日と7月21日に「お接待」を行い、寺社を参拝する人々に菓子やモチ、握り飯などをふるまったそうです。
そのあたりの話が1999(平成11)年4月発行の志手老人クラブ共和会の会誌「ふるさとだより」第5号にありました。
今は途絶えてしまった志手のお接待についてもう少し詳しく見ていきたいと思います。
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志手集会所の出入り口横にコンクリートブロックでできたとても小さな御堂があります。
正月には鏡餅が供えられ、今年はお酒も置かれていました。
どういう経緯で、ここにコンクリートブロック製の御堂が作られ、大師像が安置されることになったのか。このブログ「大分『志手』散歩」の筆者はそのあたりの事情を詳しくは知りません。
ただ、この大師像とともに志手集会所での「お接待」が行われたのは間違いないでしょう。
お接待の風習は途絶えてしまいましたが、大師像はいまも大切にされています。
タイトルは「伝えたい昔の行事」「お大師様おせったいのこと」で、毘沙門堂正面で撮影した関係者の写真が添えられています。
写真の人たちは志手の「お大師様保存会」のメンバーで、この人たちが毎年4月21日と9月21日に「おせったい」を行っていたようです。
おせったいは「見返りをもとめないもてなし」という意味で、志手では「おせったい」で子どもたちにお菓子を配っていたそうです。
志手の「おせったい」はいつ頃、どうして始まったのか。それは分からないが、戦前は毘沙門堂で青年団が行っており、太平洋戦争が激化した時に中断、戦後しばらくして地域の高齢者有志が復活させたのだそうです。
1992(平成4)年5月8日付大分合同新聞に小さな記事(上の写真)がありました。記事に「お大師さま」をまつっている毘沙門堂で4月21日、お参りに来た約200人に菓子を配る接待をして喜ばれたとあります。
すると、お大師さまが毘沙門堂から現在地に移るとともにお接待の場所も毘沙門堂から志手集会所に移ったと考えられます。
その時期は新聞記事があった1992(平成4)年から「ふるさとだより第5号」が発行された1999(平成11)年4月の間ということでしょう。
志手のおせったいは今はありませんが、志手で育ったひとたちの記憶の中には懐かしい思い出としていまも残っているかもしれません。
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